牧野富太郎の子孫や先祖は誰「最初の妻牧野猶(まきのなお)の存在と、生家と坂本龍馬の実家との意外なつながり」

らんまん
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「らんまん」の主人公・槙野万太郎のモデル、牧野富太郎(まきのとみたろう)は日本の植物学の父と呼ばれ妻・寿衛子(すえこ)とはおしどり夫婦と言われてきました。
しかし実は再婚で、牧野猶(まきのなお)という存在が浮彫りになりました。そして生家である酒屋と坂本龍馬の実家もご縁があったのです。
今回は、牧野富太郎の子孫や先祖は誰かと、存在を消された妻・牧野猶(まきのなお)、坂本龍馬の実家とのつながりについてお伝えします。

朝ドラ「らんまん」槙野万太郎の実在のモデル「牧野富太郎の生涯」

幕末の土佐で酒造業を営む商家の息子として生まれる

牧野富太郎(まきのとみたろう)は文久2年(1862年)土佐国佐川村西町 組101番屋敷で酒造業を営む商家の子として生まれました。
酒造業の屋号は”岸屋”、”井上和之助酒店”です。

最初の名前は「成太郎(誠太郎)」ですが3歳で父・佐平(さへい)、5歳で母・久壽(くす)、6歳で祖父・小左衛門を亡くし、祖母・浪子に養育され、そのころに「富太郎」に改名しています。

本人の自叙伝では大変ないたずらっ子できかん坊、酒男に押さえつけられてお灸をすえられたこともある記しているほどで、興味があるものに対しては歯止めが利かず、番頭が買ってきた当時珍しかった時計を解剖(分解)して納得いくまで調べるレベルであったようです。

槙野万太郎のモデル牧野富太郎の幼少期「らんまん」ではこの辺り


らんまんネタバレ、あらすじを最終回までまとめ

牧野富太郎が寺子屋、私塾、藩校(郷校)で学び始める

少し変わった富太郎少年は、10歳から土居謙護(どいけんご)が営む寺子屋で習字を習い、11歳から佐川から離れた東の目細で塾を営む儒学者・伊藤徳裕(いとうのりひろ)、号を蘭林に師事しました。
そこで武士の子に交じって習字・算術・四書・五経などの漢学を学びました。佐川はたくさんの儒学者を出した地域であり「佐川山分学者あり」とよく言われていました。

しばらくして藩校「名教館」で西洋学問のうち、地理・天文・物理(窮理学)を学び、川本幸民の「気海観瀾広義」、小野蘭山の「本草綱目啓蒙」、「天変地異」「窮理図解」「輿地誌略」などを読んだといいます。また英語学校で英語を学ぶなど英才教育を受けていました。
しかし明治7年(1874)、学びにおいて富太郎少年の足を掬う出来事が起こります。

槙野万太郎のモデル牧野富太郎が藩校などで学び始める「らんまん」ではこの辺り

牧野富太郎が小学校教育のレベルの低さに失望し退学

明治7年、学校教育の制度が整備され、藩校「名教館」は佐川小学校となりました。それまで、藩校でレベルの高い教育を受けていた富太郎は、五十音順から学びなおす羽目になり、鬱憤がたまっていきます。

当時の小学校は、上等と下等に別れ、それぞれ八級に別れ、試験をするたびに合格すれば上に進級するというシステムでした。
2年後の明治9年、下等の一級まで進んでいた富太郎ですが、すべてが嫌になり退学をしてしまうのです。

当時彼の家は酒屋として繁盛していたので、学問で身を立てる必要を感じなかったと回顧しています。それが後年、後々まで彼の足を引っ張ることになるのでした。

牧野富太郎が小学校をやめるあたりの「らんまん」はここ

小学校を辞めた一年後、臨時教員として舞い戻る

牧野記念庭園情報サイトより

牧野富太郎(まきのとみたろう)は小学校を自主退学した後、酒屋を祖母や番頭に任せ、気ままに植物採集に没頭していました。
採取した植物は「重訂本草綱目啓蒙」で調べ名前を覚えるなど知識をためていました。自主退学から一年、「授業生」いわゆる臨時教員として給与月3円で佐川小学校に復帰します。
この頃に昆虫にも興味を示すと同時に植物の採集・写生・観察などの研究をしました。在籍中、「長尾長」「矢野矢」という二人の教員から英語を習い、後年に活かされることになります。
しかし、田舎で学問を極めることの難しさを感じ2年後の明治12年(1879)、17歳になると臨時教員の職を辞し、高知市に移りました。

引田五郎の五松学舎に入塾しましたが、漢文の授業ばかりであまり講義を聞かず、天文や植物・地理の本を読み漁る生活をしていました。しかし高知でコレラが流行しやむなく佐川に戻ることになるのです。

同年、高知師範学校(高知中学校)の教諭・永沼小一郎に出会い、欧米の植物学に触れ、これが人生の転機になります。
永沼先生によってたくさんの書物の知識を授けられた富太郎は、次第に東京へと気持ちを膨らませた行くのです。

牧野富太郎が臨時教員となりやがて東京に目を向ける「らんまん」ではこのころ

おしどり夫婦牧野富太郎は実は再婚「最初の妻は牧野猶 (まきのなお)」

しかし驚くことに、この頃牧野富太郎は従妹の牧野猶(まきのなお)と婚姻していたというのです。
植物にこだわり続ける富太郎に、誰かと添えば家業に力を入れるかも…と祖母が一縷の望みを託した結婚だったのかもしれません。
親族との結婚ですと勝手知ったる者同士ですし、岸屋の人たちも接しやすかったでしょうし、財産の離散も免れます。
猶は働き者で、祖母と一緒に忙しく店の切り盛りをしていたといいます。
富太郎の中で彼女は妻ではなかったのでしょうか。だいぶひどい男ですね。

牧野富太郎の最初の妻は牧野猶「らんまん」では

牧野富太郎の上京と自由民権運動

明治14年(1881)富太郎が19歳の時、地方にいるよりも、東京の方が顕微鏡や書籍をたくさん購入できるとの目的で初めて上京を果たします。
「第二回内国勧業博覧会」を見学し、文部省博物局に田中芳男、小野職愨らを訪ね、日光などで植物採集をします。
帰郷後も小野職愨、理学博士の伊藤圭介に質問を出すなど積極的に研究を重ねます。
明治15年(1882)頃には土佐で活発であった自由民権運動にも片足を突っ込んでいますが、植物研究のために早々に脱退したようです。

明治17年(1884)と明治19年(1886)にも再度上京、東京大学理学部植物学教室を訪ね教授の矢田部良吉と助教授の松村任三と知己を得たり、石版印刷技術の習得などを行います。

その間、度重なる上京、貴重な学術書の購入などで湯水の如くお金は使われていく一方で、妻は佐川に放置のまま家業をさせられていたのでした。

東京で様々な知識に触れる富太郎「らんまん」ではこの頃

富太郎の祖母・浪子の死、寿衛子との結婚の裏で存在を消される牧野猶

明治20年(1887)25歳の時、東大の矢田部良吉の植物学教室の面々と「植物学雑誌」の創刊に携わります。
彼にとって華々しいデビューでしたが、この頃祖母・浪子が亡くなり没落の兆候が表れはじめますが、翌年にはまた上京し、挙句の果て東京で菓子屋を営んでいた寿衛子と所帯を持つ=結婚してしまうのです。

祖母・浪子の葬式は猶(なお)が取り仕切っていたようですから、その後にあっけなく捨てたということなのでしょうか。猶に関する記録はウィキペディアにも、高知県立牧野植物園の紹介にも、牧野富太郎自叙伝にも記載がありません。
愛のない結婚であったかもしれませんがあまりにも猶が不憫です。猶側も再婚等したでしょうし、従妹ということですからあえて記載しないと親族間で取り決めていたのかもしれません。

牧野富太郎の祖母の死・寿衛子との結婚は「らんまん」ではこのあたり

「日本植物志図篇」を自費で編纂、新種の植物を次々と発見

牧野記念庭園情報サイト

寿衛子と結婚した同年に「日本植物志図篇」を自費出版し描画力に富んだ図に植物研究の第一人者であるロシアのマキシモヴィッチに絶賛されました。
新種ヤマトグサに学名を付け、横倉山でコオロギランを発見、東京江戸川区でムジナを発見する快挙を続けますが、東京大学の矢田部教授・松村任三教授らから嫌われ植物学教室から出禁を言い渡されてしまいます。日本での研究の道を断たれた富太郎はロシアのマキシモヴィッチの許へ行こうとしますがマキシモヴィッチが亡くなりそれは実現しませんでした。
以降3年は高知に戻って実家を整理して過ごしています。

松村教授らに嫌われ研究室を出禁になるのは「らんまん」ではこの辺り

松村教授に呼び戻され帝国大学理科大学嘱託、臨時雇用を経て助手となる

東京帝国大学理科大学では矢田部教授が退任し、松村教授が主任となっていました。
実家の財産がなくなっていた頃であったので渡りに船でしたが給料はたったの15円。著書では家賃くらいにしかならないと書かれています。ましてや富太郎は研究のために必要な書籍を購入しそれが大変高価であったため、多額の借金を抱えることになるのです。

それでも全国に植物採集のために出張、台湾への出張もありました。着実にキャリアを重ねていきます。

東大に勤め始めたころの富太郎「らんまん」では

坂本龍馬の実家と縁のある酒屋が富太郎の実家を買い取る

明治38年(1905)、牧野富太郎の実家である酒蔵”岸屋”こと”井上和之助酒店”を、同じ佐川にあった竹村家が買い取り、竹村源十郎支店として開店しています。

この竹村家も代々続いており、先祖黒金屋弥三衛門が、高知城下の蔵元・才谷屋助十郎(さいたにやすけじゅうろう)から天保2年(1831)に酒造株を買ったという記録が残っています。
「才谷屋」は坂本龍馬の家系筋で、この「才谷屋」と「黒金屋」が何度もやり取りをしている書状もあり、双方の家系図では「才谷屋 女」「竹村氏 女」との出自記録があり互いに嫁取りをしていたことが伺えます。この竹村家は司牡丹酒造株式会社として現在存続されています。
牧野富太郎を調べると、造り酒屋は東京に出る際親戚に譲った、とあるので、この竹村家も親戚関係であったのでしょうか。

富太郎は家業には無頓着でどうなったのかと思っていましたが、ただなくなるのではなく素晴らしい酒造会社に引き取られていったというのはいいですね。

「岸屋」こと「井上和之助酒店」が竹村家に引き取られた明治38年「らんまん」ではこのころ

松村教授から度重なる嫌がらせによる困窮

明治32年(1899)「新撰日本植物図説」刊行を始め、
明治33年(1900)には「大日本植物志」刊行を始め、これは当初帝大から費用が捻出され大手書店・丸善から刊行されましたが、松村教授の嫌がらせにより4巻で中断しています。

給料もなかなか上がらず、新しい本を編纂するからその労力分牧野君の給料を上げてはどうか?と話がたびたび出ていたといいます。
学長であった箕作佳吉も「君の給料を上げてやりたいが、松村君を差し置いてはできない」と断られていたといいます。
老年期にはいっての最終的な給料は七十五円だといいますがそれでも格安であったといいます。

なぜ松村教授に嫌われたかは、新たに発見を続けた富太郎への嫉妬というだけではなく、学歴が無いこと、大学所蔵の貴重文献をながく富太郎が独占して借りて返却しないなどほかの研究室の人々への迷惑もあったといいます。
それだけでなく大学の権威を無視した出版なども続けたことが大学に所属する村松教授には理解できないことでした。

富太郎は長年助手をつとめ、50歳にしてやっと東京帝国大学理科大学講師になります。

松村教授と揉める富太郎「らんまん」ではこのころ

二千円の借金で首が回らなくなる

富太郎の給料は最初15円、47年帝大に関わって最終的には75円であったといいます。
しかし13人生まれた子供が一人倒れれば病院代、妻・寿衛子が妊娠出産で働けなくなれば家計は輪をかけて火の車になります。
到底補いきれなくなり借金はそのうち二千円にもなります。

その借金は同じ土佐出身の三菱本家の岩崎氏により片づけられましたが、出版や研究などで借金はかさみます。
素封家(大金持ちの意)の池長孟(いけながはじめ)は、富太郎の標本を買い取る形で二万~三万の援助をし、池長植物研究所に所蔵しました。
また日立製作所の創業者で政治家の久原房之助(くはらふさのすけ)からも支援がありました。

寿衛子の死「スエコザサ」の命名

牧野富太郎と妻・寿衛子

富太郎は昭和2年(1927)に東京帝国大学から理学博士を受けます。なんと65歳。新種のササを発見しています。寿衛子は翌年に亡くなりそのササには「スエコザサ」(学名ササエラ・スエコアナ・マキノ)と命名されています。

それからも賞を受賞したりしながら昭和15年(1940)に東京帝国大学を退官後、78歳で「牧野日本植物図鑑」を刊行し94歳で亡くなるまで人生を植物学の研究に捧げました。

「らんまん」ではどこまで放送されるのでしょうか。夫婦二人三脚っぽいので寿衛子が亡くなるまでを描かれるのかもしれませんね。

「スエコザサ」命名、「らんまん」ではここ

牧野富太郎の先祖や子孫はだれ

牧野富太郎と、最初の妻・猶との間に子供の情報はありませんが、糟糠の妻・小沢寿衛子との間には13人、うち成人まで育ったのは7人います。
女4人、男3人です。

長女・香代
次女・鶴代(1898年5月12日 – 1970年5月12日)
長男・春世
次男・百世
三男・勝世
三女・巴代
四女・玉代(1910年9月10日生まれ–没年不明)
です。

うち詳しい経歴が表に出ているのが次女と四女になります。

富太郎の面倒を見たのが次女・鶴代さんで、弁護士・無産運動家の額賀二郎さんと19歳で結婚しますが、うまくいかず離婚。その後父を支え父の死後は約4万5000冊の蔵書を父の郷里高知県の牧野植物園に、東京練馬区の居宅を東京都に寄贈し、寄贈された居宅は現在の牧野記念庭園となっています。
「集成牧野植物図鑑」「牧野植物随筆集」も出版し、父の功績を後の世に伝えています。
孫の牧野一浡さんが定年後、牧野記念庭園記念館の学芸員を務め、曾祖父と祖母の意思をしっかりと受け継いでおられます。

また四女の玉代さんは川村女学院(現・川村中学校/川村高等学校)を卒業し五交商事、日本造形の元会長・岩佐喜七氏に嫁いだことからお名前が表に出ておられるようです。
子孫としましては、外孫・岩佐まゆみ、外曽孫・岩佐義晃さんの名前が挙がっています。お二人とも成蹊学園系列の学校を卒業されているようです。

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